32.井伊大老について皆様のご意見を

  来月、文士劇(素人劇)で、井伊大老を演ずる予定であることは、
年頭のあいさつでも申し上げたとおりです。
二年前には、孫正義さん演ずる「坂本龍馬」で、高杉晋作をやりましたが、
今度は、吉田松陰が主人公です。
また、ベンチャー経営者、政治家、マスコミ関係者などで楽しくやります。
詳しいことが決まったら、このホームページでも紹介します。

  今度の、井伊大老は郷土滋賀の生んだ偉人ですから、責任重大です。
井伊大老も、誉められたり、貶されたり評価が定まらないところもありますが、
私は、「葵の呪縛」(同朋舎・角川書店)のなかで、だいたい、以下のような見方をしてみました。
  いろんな見方があると思いますが、皆様の意見をお聞かせいただければと思います。
(もし、「葵の呪縛」に興味のある方は、「著書・オンライン販売」(こちらをクリック)
ご意見のあるかたは、「ひとこと、もの申す」(こちらをクリック)までお願いいたします。)

「葵の呪縛」より

  江戸城で将軍家定に拝謁した正睦は、不首尾について報告すると共に、
「松平春獄を大老にして難局きり抜けを」と進言した。
ところが、意外にも暗寓とみられていた将軍家定は、明確な言葉で
「家柄といい人物といい彦根を差し置き越前を大老にするなどもってのほかである。
井伊掃部頭を大老にせよ」と宣言した。四月二一日のことで、翌日に直弼は大老に就任した。

  まさに将軍によるクーデターであった。
斉昭や春獄から馬鹿呼ばわりされていた家定が突然に自分の意志を押し出したのである。
将軍自身の命令である以上は誰も拒否できない。
岩瀬忠震などは「あの稚輩に等しき男を」と憤激したがどうしようもならない。
ただ、大老などこれまでも飾りに過ぎなかったから、この決定が実質的な意味を
それほど持つとはなお受け止められていなかったのである。

  ところが、この直弼はたちまち独裁者として振る舞いだした。
何より毎日登城するし、老中の会議にも出席する。
いってみれば、それまでの大老は代表権のない会長だったのが、
代表権がある会長として振る舞ったのである。

  彼はインテリであり、京の長野主膳をはじめとする独自の情報網ももっていたから
冷静にことの成り行きを観察してすべてを歯がゆく感じていた。
しかも、口下手で妥協を好まない性格である。
さらに、肥満していて腹が出ているのでいつも反り返ったような姿勢だったことが、
余計に尊大な印象を補強していた。

  この政変で老中たちはまったく立場を失った。
堀田正睦は多人数の面前で「京の処置を誤り関東の威光を二の次にした」と辱められ、
「京都の事情もよくも調べずに自分の物差しで計ろうとして不覚をとった」とまでいわれた。

  大老となった直弼が最初に片づけたのは将軍後継問題である。
一橋擁立派は年長で見識の高い慶喜をというが、血縁でなく年齢や能力を問題にすれば
たちまち将軍の世襲ということ自体についての正統性の根拠が薄れてしまう。
清朝の皇帝は後継者の名前を紫禁城に掲げられた額の後ろに隠して息子や兄弟のうち
これはと思う者の名前を後継者に指名したから賢帝が続いたのだが、
それと同じように将軍が自ら人物を判断して決めるというのなら筋が通るが、
臣下のものたちがルールもなくあれこれ議論してということになると、
世襲制の原則そのものが論理破綻することになるから直弼の理屈は正しい。
現代の企業でも、オーナー一族のうち誰が後継者にふさわしいかを
従業員に決めさせるわけにはいくまい。

  四月二六日、将軍家定に直弼は紀伊慶福を西の丸に迎えることを提案し了承された。
そして、五月一日には一橋派の松平春獄を藩邸に呼びつけて、
「亡き家慶公の思し召しは紀伊殿であったのでほかには考えられない。
それに一橋殿には素行につき芳しくない噂もあり、
何しろ実父の斉昭公が大奥で嫌われており和合できそうもない。
紀伊殿に決まったら越前殿も行きがかりを棄てて忠誠を尽くして欲しい」と頭越しに宣言した。

  一橋派の川路は、「条約勅許を得るためにも朝廷の希望するように一橋慶喜を後継に」と
いう意見を出したが、やや筋違いの意見を小者出身の彼が出したことで、
井伊直弼は激怒し左遷された。

  結局、幕府は誰を後継にするかについての白紙委任状を朝廷から手に入れることに
成功し、一方、日米修好通商友好条約には勅許なしで調印した。
七月四日に将軍家定は没し、慶福が家茂と改名して第十四代将軍となった。
条約無断調印に対して、水戸斉昭、尾張慶恕 、松平春獄、一橋慶喜らが猛抗議したが、
彼らは不時登城などの名目で謹慎させられた。
幕閣でも堀田正睦らが更迭され、間部詮勝、太田資始という井伊直弼側近が登用された。

  京都では孝明天皇が違勅に激怒して譲位を口にされたが、
井伊大老は「承久の変の前例もある」と天皇を処罰する可能性まで口にした。
この両派のバランスが崩れたのは、七月一五日、島津斉彬が急死したことである。
斉彬に率いられた薩摩軍が上洛すれば幕府といえども安閑とはできないと
誰もが考えていたから、その可能性がなくなることの意味は大きかった。
朝廷からは「幕府は御三家を始めとする諸大名らと相談して国内治平、
公武合体を図れ」といった密勅が幕府だけでなく水戸家などに出された。
内容はなんということはないが、幕府の頭越しに、しかも、謹慎中の御三家も政治に
参加させよということであるから、それまでの朝幕関係を根本から問い直すものであった。

  ただ、この密勅には九条関白の副署がなかった。
この情報を手に入れて知らせてきたのは長野主膳だが、井伊直弼はこれを盾に取り
これが水戸藩の工作で出されたものであることを怒って、水戸藩家老などを更迭させた。
水戸藩ではこれに反発するものが多く、腹を切って抗議するものも相次ぎ、
江戸へ向かおうとするものがいまの千葉県松戸市北部にあって
水戸街道の宿場町だった小金に集結するなど騒然とした。
もはやクーデター前夜の混乱状態だった。
京都では幕府よりの九条関白が窮地に立っていた。
関白が罷免されれば、幕府と朝廷の間は抜き差しならぬものになるとみた幕府は
ついに大粛正に踏み切った。
京都で暗躍していた元若狭藩士梅田雲浜を皮切りに青蓮院宮、
公家から志士たちに至るまで二百人ほどが検挙され、
吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎ら八人が死罪となった。

  この大獄での犠牲者はそれほどの数ではない。しかし、犠牲者は聖者になる。
幕末維新の血なまぐさい騒乱がここに始まった。

  井伊大老は、開国路線を強引に進め、咸臨丸などで
条約批准書交換の訪米使節団を送り出した。
勝海舟や福沢諭吉もこれに参加したが、代表団の実質的なリーダーとして起用されたのが
三千石の旗本である小栗忠順である。
秀才で辣腕、そして生意気な男で、直弼の死後もその路線の後継者として、
勝海舟のライバルとなる人物である。

  ときあたかも、米国では南北戦争が迫り、ヨーロッパではナポレオン三世の第二帝政が
全盛を迎えてパリの街をきらびやかに飾り立て、イタリアも統一は目前、
プロシャはドイツ統一への準備を着々と進めていた。
一八六〇年は、リンカーンが大統領に当選した年であり、パリ・オペラ座の設計案が決まり、
ガリバルディがナポリ・シチリアを征服した年であるし、ビスマルクの宰相就任は二年後である。

  我が国でも、幕府をそのまま近代国家の中核として模様替えする
直弼の闘いが始まっていた。
しかし、水戸藩の井伊大老への復讐は、江戸が三月には珍しい雪に見まわれた
桃の節句の朝、桜田門外で水戸浪士たちが登城しようとする井伊大老の行列を襲い
首級を上げるというかたちで行われた。
暗殺の危険がたびたび指摘されていたにもかかわらず、警護の数を増やさず、
しかも、雪で刀が濡れて欲しくないというので袋に収めたままというお末な危機管理だった。

  大名がこのような形で横死したときにその藩は原則として改易にせざるを得なかった。
そうなると水戸藩の責任を問わなくてはならなくなる。
そこで、老中安藤信正は、直弼が大老を辞職し、
しかるのちに、病死したこととして公表させた。
もちろん、その死は全国どころか咸臨丸で米国へ渡った使節団にまで
伝わっていたのだから建前の世界である。

  磐城平藩主で老中だった安藤信正は、かつて直弼に罷免された関宿藩主・久世広周を
老中に復帰させ首座に据えるなど融和策を採りつつも
井伊大老の路線を引き継ぎ、幕権の強化と対外開放を進めた。
和宮を家茂の正室として降稼させたのはその最大の成果であったが、そのときに、
交換条件として五年から七年のうちに攘夷に転じることを約束せざるをえなかった。

  攘夷の風は留まるところを知らず、ハリスの右腕だったヒュースケンが暗殺され、
英国公使館が襲撃された。

  こうしたなかで、坂下門外において安藤信正が襲撃される事件が起きた。
信正は脱出に成功したものの、素足で逃げ出し軽傷を負ったのでは、
老中筆頭の権威も台無しになって辞任した。文久二年正月のことである。
四月には島津久光が千名の軍を率いて上洛し、伏見寺田屋に滞在していた
自藩の尊王攘夷派を始末し、朝廷から藩兵の京洛駐屯を認めさせ、
一橋慶喜の将軍後見職就任などを求めた勅書を獲得した。

  島津久光は勅使大原重徳とともに江戸に下り、慶喜の将軍後見職、
松平春獄の政治総裁職就任を実現させた。
ここに、井伊大老によって試みられた幕府を真の意味での日本政府に
生まれ返らせようと言う試みは最終的に挫折する。
わずか千名の外様大名の部隊に入られただけで事実上のクーデターが
成功するほど幕府は弱っていたのである。

  こののち、慶喜らを中心に推進される路線は基本的には雄藩連合を
念頭に置いたものになる。
小栗忠順に代表される「幕府絶対路線」は幕閣のなかではなお続くし、
会津藩などは最後までそれで動くのだが、新しいリーダーである慶喜の考え方は、
明らかにそれと一線を画したものであった。

  「大老が白昼に暗殺されたものを病死と偽って届けた」として
三五万石を二五万石に減封された彦根藩も井伊直弼の路線を否定せざるを得なくなった。
長野主膳らは主君を惑わせたとして斬首され、村山たか女は京都でさらし者になった。
高松藩主松平頼聡に嫁していた直弼の娘・弥千代は井伊家に返された。
この二人は明治になって再び夫婦になるのだが、離縁されたときに持ち帰った
華麗な雛道具はそのまま彦根に残され、現在でも彦根城博物館で見ることができる。

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