99.派閥政治家として小泉さんが野中さんをKO

  自民党の総裁に小泉さんがなりそうである。
理屈の上では説明しがたいが、国民にとっては田中・竹下派主導の政治への「ノン」であり、
自民党にとっては参議院選挙での争点隠しに最適と言うことだろう。
経済にとっては、小泉さんの政策を国民が支持しているわけでないが、
世の中が明るくなれば結果として景気回復につながるかもしれない。

  ただし、小泉さん自身は、実に巧妙に派閥力学を活用して
権力を手に入れようとしているというべきだろう。
森派会長として、加藤紘一の乱を橋本派の協力で乗りきり、
森派からの退陣要求を巧みにかわし、森政権の失態に
小泉氏自身もおおいに責任を分担すべき所、橋本派に責任を負わせ、
相対的な派閥の小ささを逆手にとって派閥離脱宣言を行い、
他派の若手の応援も得ながら森派の力は利用するという離れ業をやってのけた。

  政策はほとんど体をなしておらず、テレビキャスターの諸星さんが
「こういうようになると日本は官僚がしっかりしているからいい」などと
あほらしいことをいう状況だが、このことについては明日以降に書く。

  しかし、小泉さんの巧妙さに比べて、野中さんたちのセンスの悪さもあきれたものだった。
以下は、あるときに政治家としての野中さんについて私が論じた一文であるが、
参考までに呼んでいただきたい。

  ともかく、野中さんは「風」というものをまったく評価しないし、
それに対して無防備な人なのである。


  「野中は、青年団活動の中で頭角を現し、やがて、園部の町会議員から町長になった。
このころは、蜷川虎夫府政の全盛期であり、
野中が蜷川からも評価されて若くして府町村会長となった。
その蜷川と野中は、一九六六年の知事選挙で
保守系候補に与するという形で決別するのだが、
野中が中央政界とのパイプを求めて蜷川から離れたというのは間違いである。
私も地元だからよく憶えているが、もともと、
保守サイドとも関係が悪くなかった蜷川知事の方が、このころからはっきりと革新色を出し、
保守政治家である限りは蜷川シンパではすまされなくなってきたというべきであろう。
そうしたなかで、野中にとっては、蜷川に世話になり、尊敬もしていただけに、
党派的な利益優先が鼻につくと、裏切られた気分が強かったのだろう。

  府議会議員となった野中は、ほかの保守系議員が、
表向きはともかくも蜷川としばしば裏取引に走るのを横目に
府議会で厳しく蜷川知事を攻撃し、注目を集めた。

  一九七八年に農水官僚から参議院議員になっていた林田悠紀夫が知事になった。
このとき、副知事のうち一人には蜷川知事のもとで
府総務部長として出向していたこともある自治官僚の荒巻禎一が座った。
親蜷川派との融和人事である。
しかし、それと同時に共産党の影響が強かった府庁の大掃除が必要で、
そのための「荒法師」としての期待のもとに野中が送り込まれたのである。

  そうした荒法師としてのイメージは、あくまでも裏方向きという受け取られ方だったから、
副知事といっても将来の知事含みというわけでなかった。
この段階で野中の国会への転身は予定され、やがて、
衆議院議長もつとめた前尾繁三郎の後継者として国会への切符を手にしたのである。

  ようやく、国会へ出た野中と会った人は、その卓越した頭脳と迫力に感嘆しながらも、
「もっと早く国会に来ておれば竹下さんのライバルになれたかもしれないのに」
というばかりだった。
当選回数による序列のなかでは当選一回の陣笠でしかなく、せいぜい、
郵政などの族議員として頭角を現すことと、金丸のお気に入りとしての評判、
そして、京都府政の影の実力者としての地位で満足するしかなかった。
ところが、乱世の到来は野中にもチャンスを与えた。
最初に野中が政治の表舞台で目立つ存在となったのは、
一九九二年、小沢一郎が親分であったはずの金丸信を政界引退に追い込んだのに対して、
厳しく抵抗したときである。
そして、翌年に小沢が自民党を離党して細川政権をつくると、
戦闘力ある中堅幹部の多くを失った竹下派の実力者として浮上してきた。
なにしろ、万年与党であった自民党は、
国会で政府を追及するにもノウハウをもった役者がいない。
京都府蜷川府政における野党のエースの出番がやってきた。

  そして、一九九四年には村山富市内閣の実現に辣腕を振るったかと思えば、
九九年には小沢自由党を入閣させ、二〇〇〇年の連立解消とめぐるましい動きに
野中は中枢にあって指揮をした。

  この間の野中の行動をみると、何か理想があって論理的に組み立てられているいうより、
自分の身の回りで起こった出来事に人の道からはずれないように
正しく対処していくことが基本であり、その集積が政策にもなっているかのようである。

  野中はともかく頭脳の明晰な人物である。
記憶力、理解力、分析力のいずれについても、宮沢喜一や中曽根康弘など
東京大学法学部出身のなかでも第一級の政治家たちと比べたとしても遜色ない。
田中角栄が官僚出身の政治家とは違う意味で頭がいいとかいうのとは
根本的に別のものだし、竹下登の感覚言語とは違い言葉は意味明瞭である。
ただ、インテリ政治家ならする、論理に従って整理し組立する作業とは無縁である。

  「戦争で同世代の友人が多数犠牲になった」、
「地元に朝鮮半島から連れてこられた労働者が悲惨な生活をさせられ気の毒だった」、
「沖縄の人には悪いことをした」といったことが、野中の平和主義、北朝鮮外交への積極さ、
沖縄への思い入れを説明する理由になっている。
同じことをいうのに、宮沢喜一や加藤紘一なら、国家戦略とか世界平和への理想とか
いうものと関連づけていうだろうが、そういうものとは野中はほとんど無縁である。
野中が小沢を憎んでやまないのは、人間として許せないからである。
共通の親分であった金丸を追い込み見捨てたのが我慢できない。

  野中を知る人が敵も含めて共通していうのが、
「情に厚い」、「約束を守る」ということである。
しかし、こうした自分の経験とか人間関係とかで判断を組み立てていく手法は、
たとえば、地方自治の現場などでは成功するが、
器が大きくなればなるほど矛盾が拡大する。
あるいは、大きなものを見落とすことになりがちである。

  野中がやや弱いのが、世の中の「風」を見ることと、説明をきちんとすることである。
野中幹事長のもとで自民党は総選挙でなぜ負けたかということを考えれば、
プロの政治家である野中にとって万全と見えたとしても、
無党派層の感覚的な風に対しては無防備で
候補者選びでも戦術面でも対策を怠っていた。
あるいは、なぜ、公明党と組まなければならないかにしても、
本来なら、現行憲法では参議院の過半数を抑えなければ何もできないということを
制度論として説明し、制度改正なども議論として提起しながら
結論への支持を求めるべきであっただろう。
小沢一郎と組むのにしても、「小沢さんにひれ伏してでも」では
仲間内での説明にしかならない。

  参議院で一本釣りで旧新進党議員を自民党に鞍替えさせた手腕は見事だったし、
解散がない以上は、あのような手段も許されていると思うが、
それにしても、もう少し、スマートなお化粧があってもよかったのではないか。
それが彼の限界である。」

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