365.天皇陛下の「ゆかり」発言をめぐって
FIFAワールドカップを機に昨年の天皇誕生日に行われた「ゆかり」発言が再び話題になることが多い。

もいういちど振り返ると次のようなものである。

「日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀(天皇の勅命により編纂された日本最初の歴史書で、歴史の始まる前の神話で伝えられている時代である神代〈かみよ〉から持統天皇までの歴史を記録している)などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や招へいされた人々によって様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部(がくぶ=宮内庁式部職の一部局)の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、いまも折々に雅楽(ががく)を演奏している人があります。
 こうした文化や技術が日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に大きく寄与したことと思っています。
 私自身としては、桓武(かんむ)天皇の生母(せいぼ=実母)が百済(くだら=朝鮮古代の三国の一)の武寧王(ムリョンワン=百済第25代王)の子孫であると続日本紀(しょくにほんぎ=天皇の勅命により、平安初期、すなわち697〜791年の95年間を編年体で記した書)に記されていることに韓国とのゆかり(何かのつながりや関係があること〈縁・縁故〉、あるいは血のつながる者〈親類縁者〉の意味)を感じています。武寧王は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士(ごきょうはかせ=五経〈儒教の教典のうち最も重要な五種の書〉に精通し教授した学者。日本書紀に、継体・欽明朝に百済より来日したという記録がある)が代々日本に招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王(せいめいおう=百済第26代王)は、日本に仏教を伝えたことで知られております。
 しかし、残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは忘れてはならないと思います。
  ワールドカップを控え、両国民の交流が盛んになってきていますが、それが良い方向に向かうためには、両国の人々がそれぞれの国が歩んできた道を個々の出来事において、正確に知ることに努め、個人個人として互いの立場を理解していくことが大切と考えます。
  ワールドカップが両国民の協力により、滞りなく行われ、このことを通して両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。」

この発言については、戦前における「日韓同祖論」に途を開くものという批判もあり得るかという心配もあったのだが、韓国の世論から好評でたいへん対日感情をよくしたといわれている。おそらく日韓関係の上で歴史に記憶される発言であろう。

ただ、私はこの発言のポジションはやや正確さを欠くと思う。この「ゆかり発言」だと天皇家はもともと日本列島にいて、渡来人を受け入れた立場だということになる。しかし、最近の研究では日本人のほとんどは弥生時代以降の渡来人の子孫だと言われている。とくに九州や関西ではその割合が圧倒的である。
  ということはおそらく皇室の先祖にしてもいつの時代かは不明だが大陸から渡ってきたという公算が高い。ただ、おそらくは、大和朝廷を確立したころにはその具体的な記憶を失っていたはずである。日本書紀によれば皇室は日向から大和に移ったとある。だいたいどこの家族でも、いま住んでいる土地の前にどこにいたかは知っているが、それ以前はどこかというとはっきりしないことが多い。「私の先祖は室町時代に信州から来たらしい」という素封家に、「信州の前はどこですか」と聞いて分かるのは源氏とか平氏で歴史書に名前が出ているような場合だけである。普通、大陸からたどりつくのは北九州か日本海側でそこから日本列島各地に散っていったはずである。皇室も日向に住み着く前にどこにいたかは忘れていたから天から降りてきたことにしたのだろうと私は考えている。
  だから私は自分を「渡来人」だと思わない人は「いつ先祖が日本に来たかを忘れた人」だと考えるべきである。その意味では天皇陛下があの発言をされるとすれば、「日本人のほとんどは日本という国が形作られる以前の二千数百年ほど前の時代から韓国朝鮮など大陸から渡ってきた人たちの子孫です。私どもの先祖もおそらくはその一人だった公算が大きいと思います。さらにそののち日本という国が統一された後にも韓国朝鮮から多くの人々が渡ってきました」という言葉が始めにあればより正確なものであろう。

  その一方、日本と韓国朝鮮の関係については、常に過大な評価も韓国朝鮮側や日本の一部の学者などにもある。「ゆかり発言」をめぐっても、韓国の有力紙である朝鮮日報のコラムでは「日王、王室の根、百済王室から起こると是認」とし、天皇は「皇室の根は百済王室にあると認めた」とものすごい曲解をしていた。このあたりについては、拓殖大学国際開発学部教授の下條正男氏の解説が的確であろうが、事実は光仁天皇の数ある夫人の一人が百済王を先祖に持つ渡来人系の下級貴族の娘でそれが生んだ子供が桓武天皇だという以上でも以下でもないこともしっかり認識しておくべきであろう。

http://www.find.takushoku-u.ac.jp/kannkokujyousei/shimojyouyukarihatugen.htm

  ちなみに、高野新笠の御陵は洛西の京都縦貫道の沓掛インターの入り口から少し北には行った旧山陰道沿いにある。

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